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 俺は『GREEN DAY』で飯を食わせてもらうことが多い。珱がバイトで入ってる時は学校帰りに必ず顔を出すし、珱が休みでも時々ふたりで昼間に寄ったりして、美帆さんが昼飯を作って食べさせてくれたりするからだ。
 何より美帆さんの作る飯は美味い。お世辞じゃなくホントに美味い。ここのフードメニューは美帆さんの食に対する限りない情熱の賜物でライブ中心のハコとは思えないほど充実していて、だから『深夜まで美味い飯が食える店』なんてタイトルで情報誌に紹介されることも珍しくないくらいで。特に豆腐の明太挟み揚げとか大根もちとかニラ揚げ餃子なんか最高だ。俺の好みはオッサンくさいって、珱には嫌ぁな顔をされるけど。
 
 珱はここで働き始めてからずっとキッチンのサポートをしてるから、時々料理を習ったりもしてるみたいだ。
 どうも美帆さんは珱に関してなにか思うところがあるらしい。というより、俺と珱が抱えてる事情に薄々感づいてるんじゃないかと思う。時間があると珱をキッチンに呼んで調理器具の扱い方や簡単な料理を教えてくれたり、珱の帰宅が深夜にならないようシフトを組んでくれてるようなフシもある。
 元々素質はあったんだろうけど、俺のマンションで暮らし始めた珱が身の回りのことに困らないで済んでいる理由は、実はそんなところにあったりする。




 
「あーっ! 斎くーんっ、ぎゃ―――っ」
 放課後いつものように店に顔を出すと、えりかが俺のところにすっ飛んできた。
「窪塚くん、止めて、今すぐ止めてっ。痛いんだよ絶対。なのに我慢するんだよーっ」
「なに、どうしたの。ちょっと落ち着いて最初から話せよ」
「アタシが悪いのぉ。油の入ったフライパンひっくり返しちゃって、咄嗟に素手で受け止めてくれたんだよ。油はかかんなかったんだけどてのひらが真っ赤になっちゃって、もう信じらんないっていうか、うえーん」
「はぇ?」
 今にもわぁっと泣き出しそうな顔で捲し立てるえりかの話を総合すると、えりかのポカミスを珱が庇って、てのひらに火傷を負ったらしい。カウンターの中で忙しそうにしている珱を見ると、なるほどそんな感じで手に包帯が巻かれていた。当の本人はこっちをチラとも振り向かないで、平気な顔で黙々と働いてるけど。
「ああ、いっちゃん。いいところに来た。そういうことだから悪いけどあの頑張り屋さんを引きずって、連れて帰ってくれると助かるんだけどな」
 キッチンの奥から顔を出した店長の美帆さんが、苦笑いしつつえりかの隣に並んだ。美帆さんも困ってるみたいだ。
「救急行くって聞いても嫌だって言うし、しょうがないから氷で冷やしてから応急処置したのよ。一皮剥けたくらいで酷いことにはならないと思うけど、立派に火傷だから痛いのは痛いと思うのよねぇ。なのにもういいから早く上がってって言っても、大丈夫だからって聞かないのよ」
「あたしのせいなんだよ…。どうしよう…」
「ああ、ああ、えりかのせいじゃないから泣かないの」
 とうとう涙ぐんでしまったえりかの頭を、美帆さんがポンと撫でた。
「ホントに強情っぱりよね、彼。いっそ見事だわ。意外と子供っぽいのか、それとも何か事情でもあるのか、…どっちにしろ生きにくいタイプだよねぇ」
 ね、と俺に向かって目配せする。
 さすがは店の最年長、あの兄貴も頭が上がらない美帆さんにはお見通しって事だ。それでも珱の気の済むようにさせてくれるつもりらしい。のほほんとした口調に珱の気性を気遣うような響きが混じっていて、ドキっとした。
 意地っ張り。そりゃもう相当なもんだ。誰が何を言っても聞きやしない。
 …そんなこと、別に今に始まった事じゃないけどさ。…はぁ〜。




「手、痛いんだろ。無理すんなって」
 忙しそうにキッチンとフロアを行ったり来たりの珱を捕まえて言うと、
「別に」
 さらりと言って、俺今忙しいから後でな、と大きな瞳が冷たく光る。あきらかに機嫌が悪いのは我慢してるからだってことくらい、ケガしてる当人じゃなくても解るってば。
 別にじゃないじゃん。全然違うだろ。
「辛そうなの、見てて解るぞ。そんなんで無理してもらったって誰もうれしくないし、つうより腹立つってば。分かんないのか?」
「平気、やて、言うてるやろ」
 ぼそっと言って、立ち去ろうとする。
 唇をきっと結んだ拒絶の意思表示。差し出した手をいとも簡単に払いのける強情さは腹が立つより痛々しくて、見ているこっちの方が目を逸らしてしまいそうになる。
 折れることを知らない強い視線。
 今にも嫌な音を立ててまっ二つに折れてしまいそうで怖いくらいの。こういう所、珱はまだこっちが呆れてしまうほど頑なに自分を変えようとしない。
 俺は手を伸ばすと、珱のケガをしていない方の腕を掴んで思い切り引っ張った。
「どう見たって平気じゃないじゃん。いいからウチ帰ろうぜ」
 珱が俺をキッとにらみ返す。きっぱりと、固い表情で、とりつく島もない。帰るんなら一人で帰れ。口に出さなくても珱の言いたいことは視線でびりびり伝わってくる。俺は膝がふにゃふにゃになったみたいに、頭を抱えて床にへたり込みそうになった。
 どうして珱って奴は、いつまで経ってもこうなワケ?
 まるで周囲の人間が目に入らないみたいに、何でもひとりで抱え込もうとする。何も言わない、頼らないことが心配させないことだって思い込んで。
「…斎、手ェ放して」
 珱はあくまでも帰るつもりがないらしかった。
「バカ、意地張るのもいい加減にしろって」
 途端に珱はますます強い視線を俺にぶつけて来た。ったくコワイ顔して、オトコマエが台無しだぜ。けどこれぐらいで怯むような俺じゃないことも知ってるよな?
「あんま心配させんな。美帆さんもああ言ってるんだから大人しく帰、」
「これくらいのケガなんか大したこと無いし、別に痛くもないから。ええからお前は先帰れ」
「こンのやろっ…まだ言うかよ!?」
 どこかの神経が引き千切れる音が聞こえた。いきなり頭の中が沸騰した。
 この石頭! 強情張り!! 勢いで拳がぐっと固まる。と、思わず身を乗り出した俺の後ろから、美帆さんののんびり声が飛んできた。
「こらこら君たち、喧嘩するなら外でして、外で。お客さんがいるフロアで騒ぐのはみっともないよ。窪塚くんも、頑張ってくれるのはすごくありがたいけど頑張ることと無理することは違うの、分かるよね? ここはもう良いから今日は帰って。ケガが大丈夫なら、明日からまた頑張ってくれればいいんだから」
 口調は穏やかだけど、珱の顔をぴたっと見据えた目は口答えを許さない雰囲気だ。その静かな迫力に、さすがの意地っ張りがぐっと言葉を飲み込んだ。
 そら見ろ。俺なんかよりこの人を怒らせる方があとが怖いぞ?
「んじゃ、この意地っ張り連れて帰ります。あとよろしく」
「はいはい。気をつけてね」
「窪塚くーん…傷が痛んだら、えりかのことバカヤロって思っていいからね」
 涙混じりのえりかの声を聞いた途端、珱が俯いていた顔を上げた。何か言おうと唇が動く。でも言葉は出なくて、代わりに珱は小さく首を振った。えりかのせいじゃないから。そう言おうとしたんだと思う。
 でもそれは言葉にならない。
 まだ、ならない。
 あ、と美帆さんが気の抜ける声を上げた。
「ちょっと、ちょっと帰るの待って。大事なもの忘れてる!」
 大事なもの?
 美帆さんはひらひらと手を振りながらキッチンに駆け込んで、小さな紙袋を抱えてまたバタバタと戻ってきた。
「これよ、これ。これ忘れたら元も子もないよ。ほら、しっかり持って」
 はい、と珱に袋を手渡しながら、にっこりと、…いや、ニヤリと笑ってウィンクする。珱は黙ってそれを受け取ると、見送りのふたりに向かってぺこりと頭を下げた。
「なんすか、その紙袋?」
「ああ、これはね…」
 美帆さんとえりかが同時に言った。
「誰かさんが泣いて喜ぶとっておき、かな」




 店を出て電車で家へ帰る間、俺は珱の腕を掴んだまま離さなかった。振り解かれたらぶん殴ってやるつもりだったけど、珱は結局家に着くまで大人しく俺に腕を引かれていた。部屋に入って手を離したら、腕に吸い付いてたてのひらがじんと痺れて固まってて、珱の手首には俺の指の痕がくっきりと残ってた。色の濃い肌の上からでも分かるくらい赤黒く変色してる。こんなになるほど強く握ってたって事だ。
 掴まれてる珱だって相当痛かったはずなのに、黙ってたんだ。
 そんなことも言わないんだなって思った。




 部屋に入るなり珱は早速キッチンに立って食事の支度を始めた。
「飯、店で食べ損なったな。お前腹減ってるやろ、なんか作ろか」
 やっぱり…思った通り自分の分じゃなく、俺のかよ。
「いらねぇ」
 珱が呑気に笑ってみせる。
「アホ、腹ぺこで家まで帰る気か? 途中で倒れるぞ…」
「いらないっつってんだろ!!」
 知らずに怒鳴ってた。足が勝手に動いて蹴り上げたテーブルがグラッと揺れる。そのショックで上に乗ってたグラスが、ラグの上にコロンと落ちた。
 珱の動きがぴたりと止まる。さっと振り返る気配がする。俺の動きを視線で追ってる。でも俺は顔を上げることも出来ない。
「悪ィ。…ちょっと、暴れた」
 床に転がったグラスを拾い上げながら俺は悔しくて、情けなくて、もうちょっとで涙を零すところだった。

 俺が手を離したら、途端に珱との距離がすうっと広がる気がする。今まで少しずつ探りながら近づいていたものが、一瞬で最初の位置まで逆戻りする。やっとの思いで縮めたつもりの距離が、些細なきっかけであっという間に振り出しに戻る。俺たちはまだそんなことを延々繰り返してる。
 じっと床に蹲って床に落ちたグラスを握りしめる。力を入れすぎて腕がぶるぶると震えた。そうでもしなきゃ珱に手を挙げてしまいそうで怖かった。
 珱が俺と同じように体を丸めて床に膝をつく。それから、グラスを掴んでる俺の手の上から自分の手を重ねてきた。色を失って痛くなり始めた指をそっと撫でながら、力が弛まるのを待って一本ずつゆっくり開いていく。自分の手がグラスから離れて珱の膝に乗せられるのを、俺はずっと目で追っていた。
「……俺がなんも言わへんのが、腹立つ?」
 珱の静かな声が響く。曖昧な口調は俺に訊いてるというより、自分に向かって話しかけているみたいだと思う。
 珱はいつもこんな話し方をする。だから俺はいつも珱から受け取る数少ない言葉の意味を掴み取ろうと、必死で耳を澄ましてる。神経を全部珱の方に振り向けて、頼りなく差し出される手を逃がさないように目一杯腕を伸ばしながら。
 俺は黙って首を横に振った。
「腹…立ててんじゃないと、思う。分かんねぇけど。なんていうか、悔しいとかガックリ来たとかのほうが近いよ」
 言い表せない心の内をせめて俺だけは感じてやりたい。俺にだけは見せて欲しい。たったひとつ心に決めたことすら思うように伝わらないことが堪らなかった。
 珱は返事をしなかった。言葉を返す代わりに、重なったてのひらにぎゅっと力が込められる。グラスをポイとそこらに転がしてから、形を確かめるように、珱は俺の手を何度も握り直した。
「…コウイウの口で言うの、すげー苦手なんやけどな……」
 くすっと吹き出す音のあとに、珱の唇から呟きと溜息が同時に漏れる。
「ケガしたのは自分のせいやし、そんなんでバイトに穴空けるのは情けないやろ。やから、悔しくて、みんなの前で意地張った。お前があんまり心配するから、また恥ずかしなってガキみたいにムキになった」
 コツン…と、頭と頭がぶつかった。お互いの距離が急に近くなる。
「何で…ケガしたかっていうと、」
 言葉が一瞬途切れる。恐る恐る目を上げると、眉を寄せるのを我慢してるんだろう、妙に真面目くさった顔つきの珱と正面から目が合った。
「えりかにお前の好きなアレ、揚げ餃子の作り方習ってたから」
 珱の言ってる意味がピンと来なかった。冗談とか茶化すとかじゃなく真剣に。
「………なに?」
「やから、」
 あーもう…とばかりに、珱はまた自分の額を俺の額にぐりぐりと擦り付けた。
「お前がアレ好きやから今度ウチで作ったろと思って、作り方習ってたん。で、えりかがうっかり隣のコンロに乗ってたフライパンひっくり返しよって。あいつにケガさしたらアカンと思って、思わず手で払ってしもた。そんなんで火傷したなんてめっちゃカッコ悪すぎやろ? そやし言いたなかったの」
 一気にそこまで喋り終えると、珱はもう一度はーっと息を吐いてからゆっくり目を伏せた。この類い希な照れ屋が、全部言い終えるまでよく我慢したと思う。
 それってわざわざ確かめたりしたら失礼なくらい、俺のため?
 …なんて素直な疑問をポロッと口に出さないように、ぐっと唇を噛みしめる。そうしたらさすがに言葉がひとつも出てこなくなった。
 混乱した頭で考える。
 なんか言わなきゃ。じゃなくて、今すぐ珱に謝れっつの! 理由もロクに訊かないで怒ったりしてゴメンって……。
「ゴメン、な。つまんない意地張って……悪かった」
 先に言ったのは珱の方。そう言ってゆっくり腕を伸ばす。片手で俺の頭を抱えて、もう片方の手がまたぎゅうっと俺の手を握る。
 珱のてのひらの温かさに心が疼く。最初は恐々だった珱の腕がやがてしっかりと俺を抱く。俺も身体の力を抜いて珱の肩にもたれ掛かった。
 これじゃいつもと反対だろって、俺だけじゃなく珱もきっと思ってるだろう。いつもと勝手が違うからか、ガラじゃないのに何だか俺も照れてしまった。
 素直な言葉にうっかり涙が出そうになるほど、俺の中身は珱の存在でいっぱいになってる。って、そんなの当たり前か。
 大きく深呼吸してからどうにか口を開いた。
「あ゛」
 間抜けな呟きがするっと口から零れて―――――鼻の奥がツンと痛んだ。
「あれがそう?」
 店を出る前に珱が美帆さんに持たされてた紙袋を指差すと、珱はコクンと頷いた。
「そう。もう冷めてしもたけどな」
「食ってもいいか?」
 また、ウンと頷く。
「お前に食べさせよう思て作ったんやから。食わへんかったら、」
「…怒る?」
 瞬間、珱は弾かれたように笑い出した。聞き慣れた、透明な声が耳に染み込む。俺は慌てて固く目を瞑った。
「いや、自分で食うよ」
 結構上手く出来たしな、なんて屈託なく笑う軽やかな声。
 珱の笑い声はこの世で一番きれいな音色だ。
 ―――――完敗、だよな。ボロ負けだ。やられっぱなしってわけだ。

 ゴメン。ゴメンな。本当にゴメン。
 俺が謝ると珱も同じだけ「もうええから、終わりな」って言う。その度に胸の奥がズキズキした。
 どうしよ。やばいよ、絶対やばいって。ここで泣いたりしたら俺はあまりに恰好悪い。情けない。男としてどうかと思う。

 珱はさっと立ち上がって包みを開けると、タッパウェアにきれいに詰められた餃子を箸で摘んで俺の口元に突き出した。
「ほら」
 真っ黒な瞳が悪戯っぽくキラキラ光る。
 ちょっと待って。まさかこのまま食えって?
 
「早よ、口開けろ…」
 ―――――まさか夢じゃないだろうな?
 
 すっかり冷めてしまった塊を口に入れられた途端、不覚にも瞼が熱くなって、ほんの少しだけ涙が滲んだ。



end



いくつだよ、君ら!!と絶叫しつつアタシは去ります。珱さんが料理を習ったりしてるのでまだ子供の頃です。一応リアルライフより前のつもりで書きましたが、アタシの頭の中で細かいところの辻褄が合っているかどうかちょっと心配。
泡吹くぐらいあまあまなのをと心に決めて書き始めたら、止まらなくなってしまいました…。

 

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